「万葉の島」
↓万葉の詩を刻んだ石碑
祝島は、波高い周防灘の東端に位置する周囲12キロの孤島で、古来行き交う船の航行安全を守る神霊の鎮まり給う島として崇められてきた。このことは都にも広く知られていて万葉集にも登場する。
家人は 帰り早来と伊波比島 斎ひ待つらむ旅行くわれを
草枕 旅行く人を伊波比島 幾代経るまで斎ひ来にけむ
遣新羅使一行が航海の無事をひたすら祈ったという祝島。その名の由来であるが、「祝」という語は古代以来の神職の名称の一つ、”ほうり”とも言い、祝部とも称した。この語の初見は、「日本書紀」に仲哀天皇が正月条で海路安全を祈るため伊賀彦を以て祝として祭らしむとある。つまり、その祝のいる島が、祝島と呼ばれるようになったとも言われる。祝島から姫島、国東への航路が先史・古代における九州へ渡る主要な、かつ最短コースであって祝島はその最後の中継的寄港地であり、航海の平安を祈る為の島であったと思われる。
気候は温暖で豊後水道を北上する黒潮に守られて、海の幸・山の幸に恵まれ、古事来歴も多く、中でも山口県指定無形文化財の「神舞」は特に名高い。なお、深山には紀元前二世紀に始めて中国大陸を統一した秦の始皇帝が、方士徐福に命じ探し求めたという、不老長寿の秘果「コッコー」が実をつけ、中風が治るという「蓬杖」もある。
今の大津商店の辺りに学校が建っていた時代の運動会の様子
祝島の東部
祝島小学校全景
祝島宮戸社
秋期大祭の奇観
神舞入船の櫂伝馬
祝島忠魂碑
全景桜の祝島
上関町内の地区対抗競争の様子
「太郎万・次郎万」
むかし、この祝島に太郎万(たろうまん)・次郎万(じろうまん)というえらい豪傑の兄弟がやって来ました。二人は、九州の豊後の国(今の大分県)から遥々と都へ登る途中でしたが、ちょうど室積(むろづみ)の海岸にさしかかったとき、どちらかが言い出したものか、いっぷくしていこうということになりました。それは春も盛りの、ようやく肌も汗ばむ程暖かい日の事でした。二人は道端の小岩に腰をおろし、海から来るこころよい風を、胸一杯にすいこんでいました。
「おい、あれを見い。よい島じゃのう。まるでおとぎ話にある竜宮のようじゃ。乙姫様でもおられたら、婿さんになってもよいのう。」
「ほんに、一面さくらの花で飾られた景色は、まるで夢のようじゃ。あの島でくらしたら、きっと愉快じゃろうよのう。」
「ひとつ、あの島を占領して、大将になろうか。」
「大将、それは一段と面白かろうのう。」
二人は、さっそく船をしたてて、島に渡ってきました。島に住みついた二人は、持ち前の豪傑ぶりにまかせて、島の人々を次々と子分にしたがえていきました。とうとうその力は島全体に及び、太郎万・次郎万に反抗するものは、一人もいなくなりました。
太郎万・次郎万の一の子分に、助左衛門(すけざえもん)という弓の名人がいましたが、その腕前は人々の想像もつかない程のものでした。
ある日のこと、沖を通りかかった船が、どうしたことか島に向かって来ました。
「この島を盗みにきたんじゃ。」
島の人々は騒ぎはじめました。太郎万は、すぐ助左衛門を呼び、
「あの船をうち取ってしまえ。」
と命令しました。助左衛門は、自分の腕前を見せるのはこの時とばかり、高台にのぼり、船が見下ろせる所から、大きな弓に四尺(約1.2m)もある長い矢をつがえ、力一杯引き絞って、
「えい。」
とばかり矢を放ちますと、みごと、その矢は遥か沖の船べりに突き刺さりました。これに恐れをなしたか、船はすぐ帆を上げ、向きをかえて逃げ出しました。これを見た島の人々は、助左衛門の見事な腕前に驚きました。
このように素晴らしい弓の名人を子分に持った太郎万・次郎万の勢力は、ますます強くなり、島中はもちろん、沖を行く船さえもその力を恐れて、帆を下げて挨拶をして通るようになりました。
そんな頃、この島の西側の海岸に一人の武士が流れ着きました。その名は、石丸左馬頭(いしまるさまのかみ)といい、これまた、腕前の素晴らしい人でした。この海岸に流れ着いた左馬頭は、しだいに勢力を増し、三浦海岸一帯を、支配する様になりました。ところが、島の山ひとつ向こうの東の方では、相変わらず太郎万・次郎万が強い勢力をもっていました。これを知った左馬頭は、太郎万・次郎万を打ち滅ぼそうと考え、幾度と無くいくさをしかけましたが、太郎万・次郎万側には、助左衛門という弓の名人がおり、なかなか思うように行きません。
なんとか島全部を支配したいと考えた左馬頭は、色々と策略をめぐらしました。ちょうど太郎万・次郎万が島を離れて旅をするという事を知った左馬頭は、よしこの時だ、とばかり、太郎万・次郎万を闇討ちする事を計画しました。
丁度その頃、島田(しまだ)という所に、七朗兵衛(しちろうべえ)という人がいて、漫才師をたくさんやとって、それを見せてお金儲けをしていました。左馬頭は、その七朗兵衛に、太郎万・次郎万を殺してくれれば、毎年島に招いて漫才をする事を許すと言いました。それを聞いた七朗兵衛はたくさんお金儲けが出来るという話に目がくらみ、太郎万・次郎万を殺す約束をしました。
そんな事とは知らずに、島から出て室積の魚がえり(うおがえり)という所に着いた太郎万・次郎万はそこで七朗兵衛らの待ち伏せにあって、殺されてしまいました。二人は殺されるとき、
「自分たちを、島の中で室積が一番よく見渡せる所に葬って欲しい。」
と頼みました。それを聞いた七朗兵衛は、さっそく左馬頭にその事を伝えましたが、左馬頭は、
「あれほど自分勝手な事をした者に、墓を建ててやる事は無い。」
と、太郎万・次郎万の頼みを聞いてやりませんでした。
太郎万・次郎万が殺された島は、石丸左馬頭が支配する様になりましたが、不思議な事に、二人が死んでから、ばったり魚が取れなくなり、農作物もほとんど出来なくなりました。島の人々は、これは、太郎万・次郎万が墓を作ってくれないので、きっとうらんでいるのだろうと、口々に言い出しました。左馬頭は、そんな事はないと気にしませんでしたが、夢の中に二人が出ては、恨めしそうにせめるので、とうとうたたりを恐れて、村のはずれの室積の良く見える高台に二人の墓を作って、葬ってやりました。
それからというものは、以前と同じように大漁が続き、米や野菜などの農作物もたくさん取れるようになって、住み良い島になりました。島の人々も、年に一度は二人の事を思い出し、お祭りをしてあげるようになったという事です。
「山口のむかし話」より( 文:高松秀樹 )
編著者:山口県小学校教育研究会国語部会
「平家塚」
平景清(たいらのかげきよ:平家の侍大将)の墓と言い伝えのある積石塚。景清は体幹長大にして勇力なるを以て聞こえ、平家一門と共に西走して各地で転戦。平家滅亡後の動向には諸説あるが、秋吉台の景清洞、広島安芸津町の埋蔵軍資金との関連解明が待たれる。
「こっこう」の漢字名の名付け親は吉田松陰の師・山田亦介
←山田亦介が「こつこふ」の果実を「[けものへん+彌]猴藤」と名付けたことを伝える古文書の写し。
周防國祝嶋の名産俗にこつこふと申菓は其樹蔦にして千年を経候いては実乗不申此こつこふともふす由依之彼のこつこふを千歳と名付此の千歳を食すれば長寿すると云事
元より古老の申傳にて候処此奇徳にてか古来より今に至て祝嶋においては長寿の者多く有之誠に此千歳菓と申は世に稀なるものと申傳ける然る処過る年山田亦助様御廻郡のせつ千歳菓を御覧被成候て[けものへん+彌]猴藤と御名つけ被成其後[けものへん+彌]猴藤と申来候事
と記されている。
山田亦介(やまだまたすけ):文化七年(1810)〜元治元年(1864)
天保十四年萩羽画台大操練の総参謀格を勤め、弘化元年藩内北海岸を、三年南海岸を巡視し、四年見島にそれぞれ砲台を築き海防に尽力した。嘉永五年古賀伺庵の「海防憶測」を板行した罪で閉門処分を受けた。当時、吉田松陰に兵学と世界の大勢に着目すべきことを教えた。万延元年洋式の軍艦庚申丸を造り、翌年これに乗って下関に航し、英鑑と応接し、文久二年英商カールから壬戌丸を購入してその奉行となった。元治元年禁門の変によって幕府へ謝罪のため萩の野山獄に入れられ、同志六人と共に斬殺された。
←こんな字です。
※[けものへん+彌]はパソコンで表示できませんでした..。
祝島沖に眠る英国王室の秘宝
大正三年五月、英国船「ナイル号」(6700トン)は濃霧のため岩礁に衝突し、祝島沖に沈没した。この船には英国王室が大正天皇即位の大礼のお祝いに送った秘宝が積まれていたと云われている。
今まで、何度か船の引き揚げに挑戦した人もいるらしいが、60m以上の深海と速い潮流のため作業は難航し、積まれていた秘宝は今でもまだ海底に眠ったままらしい...。
<写真>このあたりの海底に「ナイル号」が沈んでいる
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